読むのも書くのも暇な人

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京都ぎらい

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 井上章一『京都ぎらい』(2015年、朝日新書)を読んだ。

 

 京都の人というと「自宅に招いておきながらお茶漬けを出したり箒を逆さにするなど謎の行動で迷惑であることを主張する」という漠然としたいじわるなイメージがあり、遭遇したらどうしようと若い頃はドキドキしていた。

 

 京都出身の人と初めて親しくなったのは東京に出てきてからで、ズバズバ言うけれど思っていたのとは違うなと安心した。彼女は宇治から来ていて、ご両親のどちらかが福島県出身で、自分はいわゆる京都の人ではないのだ、というようなことを言っていた気がして、その時はよくわからなくてふーんと流したような気がする。

 

 それが、20年近くの時を経て、この本で洛中洛外という概念(区分け?)知り、そういうことだったのか〜!と納得した。確かに、東京でも、「三代続けて江戸っ子」とか「山の手線の内・外」で微妙な優越意識があったりなど、都市とその周辺ではありがちなことなのかな、とは思う。私自身は、生まれ育ちなど自分で選べないことで差別するなんてバカバカしいからこういうことに加担したくはないと考えている。

 

 だからと言って、そういうことからキッチリ一線を引いているかと聞かれれば、全くそうでなかったことに気づく。自己紹介する時に、わざわざ「地方出身」を強調してしまうこと。「お高く止まってません」「親しみやすい人間ですよ」とアピールしたくて言っていたけれど、言及する時点でこの枠組みを強化してるんだな〜と思う。

 

 じゃあ、なんで人はそういうことを言ってしまうのかというと、もっと言ってはならない差別表現のはけ口としてのそれなのではないか、という指摘がこの本ではあり、「誰しも、似たものどうしのなかでこそ、自らをきわだたせようとするものである」という最後の一文にうーむと唸った。

 

 京都中華思想とか、ブラジルでの”KIOTO"の扱われ方とか、お寺とお金の関係など、笑える話がいっぱい。今、私もお寺が多い場所に住んでいるので、観光客と住む人との関係も考えさせられる。

 

 続編の『京都ぎらい 官能篇』は、初恋について振り返ることができてよかった。こちらもおすすめ。