読むのも書くのも暇な人

考えていることや読んだものについて書いていきます。

好きになる瞬間

わたしは吉本ばなな作品の読者で、中でも好きなのは短編とエッセイだ。

エッセイは世に出ている(紙・インターネットを含め)ほとんどを

読んでいると思う。

エッセイの中によく、”ワイルドな姉”のハルノ宵子氏が出てくる。

パチンコでハトを撃ち落としたり、

お父さんのお葬式を「ゲロが止まらないから」喪主なのに行かなかったりなど、

強烈なエピソードの持ち主だ。

 

ばなな読者として、ハルノ宵子作品もいくつか目を通していたのだけど、

当時はピンとこなかった。

けれども、最近、姉妹対談目当てで読んだ『隆明だもの』(晶文社)、

www.shobunsha.co.jp

面白くて面白くて、夢中になって読んだ。

ハルノさんから見た、家族のこと、介護のこと、

亡くなった後のこと、猫のこと、友情のこと。型破りで痛快。

特に、「形而上の形身」という回で、吉本隆明ファンであろう見知らぬ人との

言葉のないやりとりに心打たれた。

ばななさんが「父から教わった大事なこと」と書いていることと

一つも違わないことが描かれていて、「おお」と思った。

 

お姉さんのキャラクターは、ばなな作品の中で重要なモチーフになっていて、

お父さん、お姉さんの考えと行動が思想の核の一つ、

ご本人とお母さんとの関係は葛藤を描く上での源泉なのかなと感じる。

 

今月出た『猫屋台日乗』(幻冬舎)もすばらしかった。

www.gentosha.co.jp

コロナの日々で感じた怒り、やるせなさ、

このままなかったことになってしまうことがいやだったので

あの時期、自分にとって何が受け入れられなかったのかを確認できた。

ばなな読者としては、お母さんの着道楽エピソードを読んで

ばななさんのおしゃれさに納得できてにんまり。

「2022シンギュラリティ」は、わたしもスマホに対して同じ疑念を持っていたので

やっぱり、同志がいた!とうれしくなる。

まだ読み終わっていないので、大事に残りを楽しもうと思う。

 

今まで「?」と思っていたものに、

ぱちん、とピントが合って好きになる瞬間は特別だ。

「あれはこうだったのか」「これがこうつながっていたのか」と

雪崩のように答え合わせが押し寄せてきて、

情報の洪水のなかで戯れて恍惚を感じる。

ひとめぼれもいいけれど、

こんな風にして好きになる方法は、年齢を重ねたならではと思う。

エッセイ

学生時代の部活動で周年誌を作るそうで、

「現役時代の思い出」をテーマにエッセイを頼まれて書いた。

あの時期になりふりかまわずエネルギーを放出できる場があり、

そのあと一生会えなくなったとしても、場を共有した「誰か」がいたことが

かけがえのないことだったのだなと感じた。

それは、あの二十歳前後の時期でなければだめなのだ。

なんでなんだろうと呆然としてしまう。

 

エッセイを提出してみて、なぜだかわからないけれど、

自分のことを書く気力が湧いてきた。

他人の何かをうらやんで自分を変えようとしたり、

ある一つの考えを唯一の解だとすることに限界がきた。

自分の中にあるものと、自分を通してみるものにしか

興味が持てないことに気づいてしまった。

 

わたしは面白いことが好きで、自分の審美眼には自信がある。

わたしが面白いと思うことを書き始めようと思う。

 

43歳

あと10分もしないうちに43歳になる。

先週、足に怪我をしてしまって、1週間外に出ていない。

落ち込むかなと思ったが意外と平気だ。

 

山本直樹の『ありがとう』を読んだら、

逆噴射家族』が観たくなり、ネットで知った”『ブレイキング・バッド』の製作者が

影響を受けたのでは?”説を思い出してなるほどと思う。

 

『病短編小説集』をついに読み通したところ、

ドリス・レッシングの『十九号室へ』を発見して「ここに!」と驚く。

以前観た韓国ドラマ『この恋は初めてだから』に出てきて読んでみたいと思っていたのだ。想像より重い読み応え。

 

雨宮まみ『40歳が来る!』を読み返して、リアルタイムでは胸が痛くてあまり読めなかった『女子をこじらせて』を再読する。何度も声を立てて笑ってしまう。雨宮さんの真骨頂はそのユーモアセンスにあったと思う。ブログ『弟よ!』のコメント欄も、とても面白かった。改めて複数の作品を振り返ると、あちらの世界へ行く予感は、思ったよりもずっと早く動かしがたくあって、せつない。

 

真魚八重子『心の壊し方日記』、真魚さんのお母さんが、どんどん周りの体力・精神力を削いでいく様子が手に取るようにわかる。わたしの実母も義母もそういう要素を持っているから。のっぴきならないところまで来て、真魚さんが「生きたい」と声に出す場面に胸を打たれた。

 

43歳もたくさん読んで、たくさん観たい。

 

知らない人を殺す夢

「知らない女性を殺してしまった」と悩む夢を見た。

夢の中ではなぜか誰にも知られていなくて、

自首しようか、このままお墓までもっていこうか迷って

「もうどうでもいいや」とゴロゴロしたところで目が覚めた。

 

インターネットで調べてみると、

「知らない人を殺す夢」というのは吉夢らしい。

ストレスから解放されて、新しいチャンスが巡ってくるという。

わたしが夢の中で殺したらしい「女性」というのは

「切り離したい過去の自分自身」のことなんだそうだ。

 

そういえばこのところ、身近な鬼がいやすぎて、

周りに告白してそれとなく助けてもらったり、

これ以上鬼を呼び込まない対策を真剣に考えたりしていたのだった。

夢の中でわたしに殺された女性は

「いつも鬼に親密圏へ侵入されて泣いていたわたし」だったのかもしれない。

 

初めての親友ができたのは、小学校2年生の時だったと思う。

妹か、母が選んだ友達しかいなかったわたしの世界に

突然現れた親友はなにもかもが新鮮で、すっかり夢中になった。

手先が器用な親友のことも、彼女のするクリエイティブな遊びも持っている本も、

暖炉があるおうちも、なんでも手作りできるお母さんも優しいお父さんも、

好きで好きでたまらなくて、24時間一緒にいられないのが信じられなかった。

 

そんな私を見て、母は嫉妬したのだろう。担任の先生に相談して私たちを引きはがそうとしたり、親友のお母さんと親しくなろうとしたりした。

どう考えてもタイプが違うのに。

そのあといろいろなことがあって、わたしが悪かった面もあったと思うけれど、

中学の時に彼女から一方的につきあいを絶たれ、

高校卒業までずっと気まずいまま同じ空間で過ごした。

母さえ入ってこなければ仲たがいせずにすんだのかもしれない、と今でも思っている。

 

母はそのあとも、わたしが付き合う友達を選び、わたしの交友関係に入り込み続けた。

わたしに仲のいい友達ができると、母が友達のお母さんにぐいぐい接近して迷惑がられ、友達から絶交されるということがそのあとも2度ほどあった。

高2になって「わたしの頭では医学部には行けない」と伝え

母がわたしへの興味を失うまで、母の干渉は続いた。

そんなだから必死で勉強して、なんとか母から逃げた。

 

親元を離れてからも、不思議なことに、

気の合う友達や心地よいコミュニティができて楽しんでいると、

突然母のようなタイプが乱入してきて、わたしと親友の中に割って入ってきたりする。

そのたびに泣いて自分が出ていくことが多かった。

「自分さえいなくなればいいんだ」と卑屈に思う自分に、

もういい加減うんざりしてたんだな。

 

これからも、わたしにとっての鬼は迷い込んでくるとは思うけれど、

「あ、鬼だ」と思って距離をとれる気がするし、

鬼が何かを仕掛けてきたら「やだ」と言える気がするし、

「あの人苦手~」と周囲に泣きつける気がする。

 

さようなら、鬼にいつも譲って、逃げていたわたし。

 

 

鬼が止まらない

鬼について考えることが止まらない。

 

前回書いた「鬼の嫌なところ」だけど、

誰しもこういう面の濃淡はあるし、

仕事では出さないけど近い人に出してしまったり、

弱っていたり体調が悪かったりするとそうなったり、はある。

だれもが鬼を隠し持っていると思う。

 

わたしが嫌いなのは、鬼を自覚も、隠そうともしないデリカシーのないタイプだ。

そういうタイプはたいてい、わたしにとって「話がつまらない」人である。

最初は話題豊富で楽しい。でも、何回も会うとネタがつきてしまい

空っぽの中身が見えてしまう。そして、同じ話をくりかえす。

わたしは飽きてしまうので、そっと逃げようとすると、

背中に思い切り罪悪感を植え付けてくる。

 

「話の面白さ」という主観的なものさしで他人を断罪するわたしこそ鬼だ。

でも、思ってしまうのだ。

「このわたしをここに留めておくのだから、さぞ面白い話をしてくれるんでしょうね」と。

鬼の研究

近くにいる鬼の、なにが自分にとって嫌なのか考えてみた。

 

機嫌で周囲をコントロールしようとする

温度や環境、社会システム、自分の体調、他人の気に障る部分、やらないといけないことなどあらゆることに対しての文句を垂れ流す。

突然怒鳴ったり、ねちねちクレームをつけたりする。

本人は言ったことを覚えていないが、聞いているほうは消耗する。

うるさくすることで相手を動かそうとしているので聞き流し

何か具体的に求められたら、「私は大丈夫」「私は気にならない」

「私はやりたくて来ている」と言う

 

嘘をつく、または大事な情報を言わない

やりたくないことから逃れるために嘘をつく。そして周りにばれていることに

気づいていない。嘘をついたら本人の信頼が落ちるだけだから、放っておく。

大事な情報を言わないで巻き込もうともする。ネガティブな条件を隠すことで

相手をコントロールしようとする。騙されると後で大変なので、誘いに乗らない。

 

ごみを押しつけてお金を要求する

自分にとっていらないものを、突然相手の意向を聞かずに渡したり、同意を得ずに何かをやったりする。相手がそれを受け取ると、お金やもっと面倒なことを要求する。どんな関係でも、「欲しいか欲しくないか」「してほしいかしてほしくないか」を最初に聞かないというのはよくないことなので、慌てて対応しない。

 

すべて人のせい(他人軸)

自分があるように見えてなかったり、自信満々のように見えてそうでなかったりするので、自分の選択には自信がない。だから、「あなたが誘ったから仕方なくやった」「あなたがしてほしそうだからやってあげた」と言って、「自分でやりたいからやった」事実を覆い隠そうとする。ネガティブな結果になった場合は責任を取らず、人のせいにする。物事の評価も、誰か他人が「いい」と言わないとそう思えない。権威がある人の評価を欲しがる。または、他人に圧をかけて無理やり褒めさせることで、自己顕示欲を満たす。今まではこういう人に対して、習慣に流されて誘ったり褒めたりしていたが、もうやめる。

 

現在近くにいる苦手な人をイメージして書いたけれど、

すべてがわたしの母そのものでゾッとする。

わたしにもこういう面があるんだろうな、気をつけよう。

人のせいにする鬼

鬼たちにされて嫌だったことをつらつら思い出している。

みな、判で押したように「人のせいにする人」だった。

やりたいことがあっても、自分で行動を起こすことはせず

「あなたが誘ったからやった」「あなたがすすめたから受け入れた」と

なぜかわたしに責任があるような環境を作ってしまう。

そうするために人に嘘をついたり、

わたしに無理やり肯定的な言葉を言わせようと迫ったりする。

そんなことをされるとその人すべてが受け入れられなくなり、

バーンとシャッターが下りてしまう。そして、とても傷つく。

 

「人のせいにする人」の中に、わたしは母の幻影を見ていて、

「お前のせいで離婚したくてもできない」

「子どもがいるから私の人生は不幸だ」

「お前が男じゃないからお父さんが家庭を顧みない」

「お前がお父さんをちゃんと愛さないからお父さんがお酒を飲んで暴れる」

「お父さんのような男と結婚してしまったことでお祖父ちゃんをがっかりさせてしまった」「お前がやりたいといったからやらせたのに結果を出していない」などなど

幼い頃から刷り込まれた呪いの言葉がリフレインしてしまう。

 

書き出してみて、いまだに一番胸がえぐられたのが、

「お前がお父さんをちゃんと愛さないからお父さんがお酒を飲んで暴れる」だ。

毎晩父が酔って暴れてケダモノのようになるのが、辛くて怖くて悲しかった。

深夜や翌日の激しい夫婦喧嘩を見るのも嫌だった。

父の飲酒は、父自身でさえも止められないのだから、母にだって、わたしにだって止められるはずがないのだ。やさしくしろ、感謝の気持ちを伝えろ、自制するよう言え、と何度強制されても、どうしても母の言うようにはできなかった。

そんなことを想像しただけで気持ちが悪かったから。

その通りにすれば、お酒は止んだのだろうか。

当時は頭がフリーズしてしまって何も考えられなかったけれど、今はそんなに言うなら

母がすればよかったのにと思う。

「本来なら妻がすべき」と勝手に母が思い込んでいる仕事を、自分がやりたくないからといって娘におしつけようとしてきた。そんな母にぞっとする。

もう会わないから本人には届かないけれど、母に伝えたい。

「お酒を飲んで暴れるのは父の問題。

それで体を壊すのも、怪我をするのも、本人の責任。

彼の孤独を埋めたいなら勝手に自分でやればいい。

子どもの私を利用するな」

 

次に「人のせいにする鬼」に出会ったら言えるだろうか。

「やるのもやらないのもあなたの問題。

メリットもデメリットもあなたが負うべきもので

わたしには関係ない。巻き込むな」

 

いつか、「人のせいにする鬼」に何を言われても

「わたしのせいじゃないし。この人おかしなこと言ってるなあ」って

笑える日が来るだろうか。