読むのも書くのも暇な人

考えていることや読んだものについて書いていきます。

目がまん丸

 2015年に4がうまれて、2016年に保育園に入れた。小さい園だったけれど先生たちがきめ細かく子どもたちを見てくれてうれしかった。そして気づいたのが、先生たちは「男らしい」「女らしい」というような定型的な表現だったり、外見や出自に関しての余計なコメントをあえてしないということだった。いろいろな国籍やバックグラウンドの人も来ているし、都会っていいな、すごいなとしみじみ思った。

 

 そして、自分の幼い頃のことを振り返った。1980年に東北で生まれて、バブル景気が終わる1990年の始まりとともに、10代が始まった。家庭でも学校でも「ブス」とか「デブ」とか外見を貶す言葉は溢れていて、それがおかしいとも思わなかった。かわいい子はお金持ちに貰ってもらえるから安泰、あんたは鼻が低くてブスだから勉強をがんばらないと生きていけないと母に言われ、そうなのかと素直に受け取った。

 

 中高くらいになると、自分の家庭の価値観はおかしいとなんとなく思うようになった。早く逃げて、都会にいかなければいけないと感じたし、高校の先生にも言われた。念願の都会に出てきて、本当にいろんな人がいた。私の田舎にいたような差別的な人もいれば、そうでない人もいた。私は、あれだけ”田舎の価値観”を忌み嫌っていたのに、それに親しんできたから、言動から抜き去ることはできなかった。私が言うこと、することに対して、健全な価値観を持っている人はすごくびっくりする。あの、目がくるりと丸くなる表情は忘れられない。自分自身がリトマス試験紙のようだった。恥ずかしいのだけれど、何をどうしていいのかわからなかった。

 

 人と話したり、本を読んだりするようになって、差別的価値観はいけないと極端になったり、その反動で人を傷つけるような表現にハマってしまったりなど繰り返した。結局人は生来差別的なのだから、それを自覚してどう行動するかが知性の使い道であり、優しさなのだと思い至った。今でも、すごく疲れていたり孤独を感じたりすると、自分は差別的な考えに傾くなと思う。

 

 もし今、一緒にいる相手の差別的な言動に悩んでいる人がいたら、どんな言葉を返すよりも宇宙人を見るような、こんな物体初めて見たという気持ちで目をまん丸くして見つめてみてほしい。その視線は、相手の心の奥にある恥の感情を照らして、どんなにその場では平気そうに振る舞ったとしても、確実に引っかき傷を残しているから。そして、残りの力で、全力で逃げてほしいと思う。

 

 お会いしたことのないけれど勝手にシスターフッドを感じている、ライターの長田杏奈さんの記事。ぜひたくさんの人に読んでほしいと思う。

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