読むのも書くのも暇な人

考えていることや読んだものについて書いていきます。

利用される

 人に利用されやすいことを、ずっとずっと悩んできた。いつも余裕がなくて、「まったくやらない」か「フルパワーでやるか」の二択しかない。フルパワーでやったときに、だいたい小ずるい人が忍び寄ってきて、「頼りになりますぅ~」とニヤッとされる。または、「わたし、こんなこんな大変で辛くて恵まれてなくて。。。」と上目遣いで見られて罪悪感を刺激してくる。そうすると蛇ににらまれた蛙みたいに動けなくなってしまうか、生贄の羊みたいな気分になってチューっと相手に吸わせてしまう。吸わせて吸わせてもう限界になったとき、ブチっと縁を切る。疲れる。

 

 親しい人に相談しても、「信頼されてるからいいじゃない」とか「考えすぎ」とか「過ぎたことをクヨクヨ考えても意味がない」などど取り合ってもらえなかった。そもそも、その親しいと思っていた人こそが、チューっと吸う人だったりする。その人に「すぐ絶交するなんて、人としておかしい」「孤独な人だね」「文句ばっかり言ってるけど何もしていない」などと言われて相談する気もなくしたりする。

 

 カウンセリングでも、本当はそのことを相談したかったのに、なかなか言えなかった。被害妄想だと思われるのが怖かったから。思い切って言ったとき、「そういうことが多かったのだから、自分を守るために、絶交したり、利用される前提で動いたり、あきらめたり、時間を区切って我慢したり、そういうことをしたのは当然だと思います」と言ってもらえてうれしかった。そして、「それはエネルギーが必要で苦しいから、新しい方法を考えましょう」と提案されて、その通り、と思った。

 

 「相手が自分を利用する、と思ってしまう理由となる過去の経験はありますか?」と言われたとき、母にお金をだまし取られたことを思い出した。子どもの頃からもらえることが少なくて、やっともらえると思ったときにヒョイっと取られた。悲しかったけれど、「やっぱりそうだよな」と変に納得してしまう自分がいた。私が弱かったから、もっと強ければよかったかもしれない。でも、欲しいという気持ちそのものが殺されているから、奪い返すこともできなかった。

 

「それは、あなたのせいではないですよね?」と聞かれたとき、アルキメデスがお風呂で「エウレカ―」と叫んだエピソードを思い出した。そうだ、わたしのせいじゃない。幼い頃からあらゆるものを禁止されて、母に奪われることが当たり前で、それをたしなめてくれる大人もいなくて、利用される人間なんだと洗脳されていたら、そうなるに決まってる。そうか、そうだったのか。

 

 そう気づくと、なぜか、今まで私を利用する目的で近づいてくる人と、そうでなかった人の区別がしっかりついてくる。「全員が自分を利用する前提で近づいてくる」と思った方が、楽だったんだなと思う。今、利用されるだけの不健全な関係は残っていない。それが嬉しい。これから少しずつ、「まったくやらない」と「フルパワー」の間を探っていきたい。