読むのも書くのも暇な人

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見にくいもの

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誰もが傷ついていて、性的であり、やがては死ぬ。それを見るものたちが、「見にくい」と目をそむけるので見られる側が「醜い」と思い込むのだ。 

 

 7月21日の日経新聞から。精神科医で作詞家のきたやまおさむ氏のエッセー。書き写してみて、心の中で反芻している。傷つきや病気、死や性について、日常ではタブーや汚れとして抑圧されがちだけれど、大抵が誰にでもあることではないのかと、きたやま氏は書く。

 

 傷ついているのに、何事もなかったかのようにふるまうことはよくある。自分もやってきたからよくわかるのだけれど、一緒にいる方も苦い気持ちになる。自分が傷ついたのだから、相手も傷ついてしかるべきと迫る場合もある。動物のようにただじっと傷が癒えるのをお互いが待てればいいのだけれど。

 

 きたやまおさむよしもとばなな『幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方』(2012、朝日新聞出版)を読んでみた。スピリチュアル的な内容なのかなとずっと思っていたのだけれど、震災直後の「日本人のあり方をとらえなおすことで、これからの困難な時代をなんとか生きていく術を、いちばんいい加減の考え方を、ふたりで模索する」という内容で、とても読み応えがあった。

 

 日本人特有の「表と裏」の話から始まり、それが何に起因するものなのかと、西洋との比較。「はかなさ」賛美、罪悪感は「恩を倍にして返せよ」という要請で強化されること、あれこれ信じて、結局どれも信じないことで生き延びること。日本人はいつも全てに「裏切られている」ということ。

 

 もっとも救いだと感じたのは、「団塊世代は自分たちの面倒をお互いにみる準備を始めねばならない、自分たちのことは自分たちで面倒を見るべきだという考え方に早く転換していかなくてはいけない」ときたやま氏が発言していること。

 

 私は団塊の最後の方の人たちの子だ。戦争と貧困のあった祖父母に対しては批判すべき点はあっても歴史に翻弄されて気の毒だったなと思う。一方、父母に対しては苦労したかもしれないけれどそれを根拠に支配しようとしてくることが耐え難い。だから、父母と同世代の人がそう発言してくれると安心する。

 

 このあたりのことをずっと書きたいと思って悶々としている。書けるかなあ。