読むのも書くのも暇な人

考えていることや読んだものについて書いていきます。

フランダースに雪は降らない

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 読み終わった。読んでよかった。なんで読もうかと思ったのかといえば、2019年の日経新聞朝刊の「半歩遅れの読書術」で『京都ぎらい』の井上章一氏が取りあげていてずっと気になっていたからだった。有料版の記事だからこのブログに訪問してくださっている稀有な読者の方々は全部見れないと思うけれど一応貼っておく。

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 この記事の最後の方で、井上氏は

2004年に、私はブラジルのリオデジャネイロへおもむいた。同州の州立大学で、日本文化論の授業を2カ月半ほど、つづけている。ある時、クラスで「フランダースの犬」に言いおよび、学生の反発を買った。ひとりや、ふたりではない。おおぜいの学生たちが、私を問いただしたのである。

どうして、日本人はそんなむごい話を、子どもの前で語れるのか。一種の児童虐待じゃあないか。国民的に愛好されているなんて、信じがたい。以上のような糾弾で、私は答えにつまったことがある。

 と書いており、日本では本作がなぜ「美しい悲話」として受容されているのか私たちで考えてみなければならない、と書いているのだけれど、「本当にそれ〜!」と思った。

 

 自分の幼少期に放映していたアニメを思い返すと、『母をたずねて三千里』や『小公女セーラ』、『私のあしながおじさん』、『火垂るの墓』など、とにかく子どもが辛い目にあう話が多かった。子供の頃は今のようにNetflixであれもこれも観られるということはなく、テレビでやっているものがすべてなので、「意地悪な人っているんだな」とか「主人公たちは頑張っていて偉いな」とか「戦争はやっぱりダメだな」とか素直に感じていたと思う。

 

 それが、幼児期から成長して小学生くらいになってから再放送を見ると、疑問が湧いてくるのである。「なんでこの人たちはこんなに我慢しているのか?」とか「周りの大人はどうして助けないのか?」とか。で、幼い頃あんなに夢中になって見ていたのに、何か騙されたような、消化しきれないものを感じ、「もうアニメを見るような歳じゃないから卒業なのかな」と寂しい気持ちで本を読むようになった気がする。

 

 『フランダースの犬』などを制作していた世界名作アニメ劇場は1970年くらいから放映を開始していて、20年間再放送をしていたので、日本の今の30代以上の人たちの大部分はこれらのアニメ群になじみがあると思う。上記の本では、当時の日本人の三分の一が『フランダースの犬』を観たと書かれていた。ファミリー向けのものなので、祖父母・両親・子どもと三世代で楽しんだ家庭も多かっただろう。1970年代といえば、まだ祖父母世代の戦争の記憶も生々しかったはずだ。悲しい話は、そのトラウマを癒す力があったのではないかと想像する。

 

 その一方で、「大人や社会に助けてもらえずに子どもが死んでしまう話」を子どもに無防備に語ることについての恐ろしさを感じる。今、4や1に、「自分が幼い頃に好きで観ていたアニメだから」と『フランダースの犬』を観せられるかと思うと、強い抵抗感がある。自然の美しさとか(オランダに限りなく近い想像上の”フランダース地方”だけれど)、ネロが人々との出会いから芸術への憧れが芽生えて真摯に絵に向かっていくプロセスなどすごく好きな部分はあるが、色々な意味でもっと精神的に成熟してから、昔の価値観という前提で観て欲しいと思ってしまう。

 

 日本では、自己犠牲の上に亡くなった人を神格化というか、美化する風潮があるのかなと思うのだけれど(だからこそ日本ではネロとパトラッシュがヒーローになったとこの本には書いてある)、それは日本独特のものなのだろうか。また、日本では共感能力が高く評価され、ともすれば共感を強制するような力が働く場面も多いように思うのだけれど、子どもや女性そして身体的社会的に弱い立場の人にあまり優しくない国なのはなぜなのだろうか。疑問は尽きないので引き続き考えていきたい。

 

 この本のドキュメンタリーもあった。あとで見ようっと。

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