読むのも書くのも暇な人

考えていることや読んだものについて書いていきます。

とらわれ

 わたしはわたしのことを十二分に理解している。客観性がある。固く思ってきたけれど、そうでもないなということが最近わかってきた。

 

 例えば「他人がわたしのことをどう感じようと関係ない」とわたしは心から思っていたはずだ。だけど実際は、「わたしは明るい。明るい人だと周囲にも思われたいし、周囲の人は『あなたは明るい人ですね』と声に出して言ってわたしを安心させて欲しい」とまで思っていることがわかって愕然とした。

 

 「他人がわたしのことをどう感じようと関係ない」と強く自分に言い聞かせるようになったのはどうしてかと考えると、「周囲の人に自分の見て欲しい面をうまく表現できない。仲間はずれにされたり嫌な態度をとられたりする。他の人気者みたいに、いい人間、楽しい人間だと感じて尊重してもらいたいのにうまくいかない。だから相手に期待するのをやめる」と思ったからだったと思う。

 

 「まわりに大事にされたい」という気持ちをなかったことにして上からギューッと押しつぶしても、手からムニュウとはみ出てくる。はみ出た欲求は行き先を求めてウロウロする。そして、慣れ親しんだ支配するタイプの人に無意識に引き寄せられてしまう。

 

 支配するタイプの人は、思うとおりにわたしが行動するとほめてくれるので、わたしも「大事にされた」と錯覚してうれしくなる。でも、要求通りに行動しないと怒るようになったり、想定外のことをしないよう仕向けられたり、監視されたり、命令されたりして息苦しくなってしまう。そして、我慢が限界にきて離れるか、我慢し続けて体がおかしくなるか、その繰り返し。

 

 子どもの頃、他の子は親に「大好きだよ、大事だよ」って抱きしめられて過ごしていたのに、私は叩かれたり縛られたり怒鳴られたり雪の中外に出されたり真夜中に寝かせてもらえなかったりしていたから、まあ仕方ない。家の中はめちゃくちゃなのに、世間には完璧に幸せに見せないといけなかったし。言っても100%かなわないことだけど、実の両親に大事にされたかったな。悲しいな。そりゃ、小さい頃から周りに大切にされて生きてきた人にはかなわない。子育てが大変な時期、親にやさしく助けてもらえる人が妬ましくて頭がおかしくなりそうだった。

 

 それでも、なんとかここまで生きてこれたし、自分の子どもをわざと傷つけたい気持ちなど、1mmも起きない。イライラしてつい怒鳴ったり、せかしたりしてしまうけど、その後めちゃくちゃに落ち込んで、謝って、抱きしめる。二人の子どもと、一応夫はわたしのことをとても大事に思ってくれている人たちだ。大事にしてくれる人が0どころかマイナス(加害してくるからね)だった人生で、2.5人に増えたのは、奇跡としか言いようがない。そして、数少ないけれどわたしを大事に思ってくれる友人がいる。それに加えて、わたし自身も、今まで自分に辛く当たってきた分、大事にするから、もう自分のことを大事にすること以外はしないでいいかなと思う。

 

 もともと機能していなかった「他人がわたしのことをどう感じようと関係ない」という呪文を書き換えるとするならば、なんだろうか。「わたしはわたしのことを大事にしてくれる人とだけ親密でいてよい。その人数が少ないとしても、わたしの価値は下がらない。明るさも暗さも、今そこにあるものとして眺めてくれる人がわたしにとっての大事な人」

利用される

 人に利用されやすいことを、ずっとずっと悩んできた。いつも余裕がなくて、「まったくやらない」か「フルパワーでやるか」の二択しかない。フルパワーでやったときに、だいたい小ずるい人が忍び寄ってきて、「頼りになりますぅ~」とニヤッとされる。または、「わたし、こんなこんな大変で辛くて恵まれてなくて。。。」と上目遣いで見られて罪悪感を刺激してくる。そうすると蛇ににらまれた蛙みたいに動けなくなってしまうか、生贄の羊みたいな気分になってチューっと相手に吸わせてしまう。吸わせて吸わせてもう限界になったとき、ブチっと縁を切る。疲れる。

 

 親しい人に相談しても、「信頼されてるからいいじゃない」とか「考えすぎ」とか「過ぎたことをクヨクヨ考えても意味がない」などど取り合ってもらえなかった。そもそも、その親しいと思っていた人こそが、チューっと吸う人だったりする。その人に「すぐ絶交するなんて、人としておかしい」「孤独な人だね」「文句ばっかり言ってるけど何もしていない」などと言われて相談する気もなくしたりする。

 

 カウンセリングでも、本当はそのことを相談したかったのに、なかなか言えなかった。被害妄想だと思われるのが怖かったから。思い切って言ったとき、「そういうことが多かったのだから、自分を守るために、絶交したり、利用される前提で動いたり、あきらめたり、時間を区切って我慢したり、そういうことをしたのは当然だと思います」と言ってもらえてうれしかった。そして、「それはエネルギーが必要で苦しいから、新しい方法を考えましょう」と提案されて、その通り、と思った。

 

 「相手が自分を利用する、と思ってしまう理由となる過去の経験はありますか?」と言われたとき、母にお金をだまし取られたことを思い出した。子どもの頃からもらえることが少なくて、やっともらえると思ったときにヒョイっと取られた。悲しかったけれど、「やっぱりそうだよな」と変に納得してしまう自分がいた。私が弱かったから、もっと強ければよかったかもしれない。でも、欲しいという気持ちそのものが殺されているから、奪い返すこともできなかった。

 

「それは、あなたのせいではないですよね?」と聞かれたとき、アルキメデスがお風呂で「エウレカ―」と叫んだエピソードを思い出した。そうだ、わたしのせいじゃない。幼い頃からあらゆるものを禁止されて、母に奪われることが当たり前で、それをたしなめてくれる大人もいなくて、利用される人間なんだと洗脳されていたら、そうなるに決まってる。そうか、そうだったのか。

 

 そう気づくと、なぜか、今まで私を利用する目的で近づいてくる人と、そうでなかった人の区別がしっかりついてくる。「全員が自分を利用する前提で近づいてくる」と思った方が、楽だったんだなと思う。今、利用されるだけの不健全な関係は残っていない。それが嬉しい。これから少しずつ、「まったくやらない」と「フルパワー」の間を探っていきたい。

弱いわたし

 久しぶりにブログを書いてみて、「かわいそうなわたし」に対する自分の嫌悪感が減っていることに気づいた。

 

 前までは、虐待されていたことをなかったことにしたい、恥ずかしい、それを今でも引きずっている自分に腹が立ってしょうがない、子どもを産む前までの記憶を全部消してしまいたいと本気で思っていたけれど、今は不思議と思わない。自分の生い立ちを絶対に隠しておきたい、気づかれたくないと思っていたけれど、今はそれもない。別に往来で演説したいとかでもないけれど。

 

 わたしの中の、かわいそうな、自信のない、被害妄想に陥りがちな、傷つきやすい、疲れた、拗ねている、弱いわたしを、なかったことにはしたくないし、消したくもないし、他の面の強さとか攻撃性を高めて覆い隠すこともしたくない。ただ、あ~いるね、大変だったねって思いたいし、暴れているときは話を聞いてあげたいし、お腹が減ったら食べ物をたくさん供えてあげたいし、寝たいときはたくさん寝かせてあげたい。

かわいそうだけど

 カウンセラーさんに伝えた不満の中で「私のことをかわいそうな人だと思わないでほしい」というのが強くあった。

 

 もちろん、相手がわたしのことを憐れんだことは一度もない。「大変な状況でしたね」と労ってくれたり、私がした選択を支持してくれることはあっても「かわいそう」と言ったことはない。

 

 それなのになぜか、相手の言葉尻をとらえては、「今、かわいそうって思いましたよね!」と突っかかりたくて仕方なかった。聞いてはいないけど、きっと子供時代は愛されて育って、難関資格を取れるような勉強に集中できる学生時代を過ごし、常識と専門知識があると思われる相手から、見下されているのではないか、という怒りが湧いて止まらなかった。

 

 話していくうちに、「ああ、わたしはわたしのことをかわいそうな人だと思っているんだ」としみじみ気づいた。厳しく苦しい子供時代を過ごし、勉強に集中できなくて生きていくのに精いっぱいでお酒や食べ物や人間関係や仕事に依存し、常識も専門知識もないまま大人になってしまった。間違った考え方を手放せないせいで問題が山積みで、カウンセリングに頼らないとならない暗くて人生終わっている人だって自分のことを思っているんだ。でも、それを自分で認めたくないから、「カウンセラーがそう思っているはずだ! そうに違いない」って思い込んで相手を攻撃しようとしていたんだ。

 

 そう思うと、「やっと私は自分のことをかわいそうと思えるところまできた。安心と安全を手に入れられたんだ」とわかった。自分のことを「かわいそう」と思えば、すべてが崩壊してしまうから、今までは思えなかった。3年前に別のカウンセリングに行ったとき、「あなたがされたことは虐待です」と言われても、「この程度で?」としか思えず受け入れられなかった。サービスで言ってくれたのかなって思った。ショックなことの後にはよく解離が起きていて、眠れず悪夢ばかり見て、毎日フラッシュバックがあっても、「これは他の人にもよくあることだ」と思い込んできた。

 

 今は、わたしはすごく気の毒な生い立ちだなって自分でも思う。かわいそうなのはかわいそうだけど、大変な中で自分なりに工夫して頑張ってきて偉かったなとも思う。要所要所で助けてくれる人がいて救われたし、自分でいうのもなんだけど性格がいいし明るいので、私の存在で心が楽になった人もいてくれると思う。

 

 この前、カウンセラーさんに対して泣きながら「わたしはカウンセリングの時いつも落ち込んでいるし泣いているから、暗い人って思われているかもしれないけれど、本当はそうでもないから、暗い人って思わないでください」と言ってしまったのだけれど、「あなたのことをそんな風に思ったことはありませんよ、エネルギッシュな人だと思っていますよ」と言ってもらえてものすごく笑えた。

 

 カウンセリングに来てまで「明るい人」だと思われたい私。「他人が自分をなんと思おうとどうでもいい」というポリシーで生きてきたつもりだったのに、本当は誰よりも他人の目を気にしている小さい自分に気づく。ちょっとかわいいとすら思う。

 

 今、わたしは、かわいそうだけれどエネルギッシュで、ちょっとかわいい。

不満

 カウンセラーさんに2週連続で不満を伝えてみた。

 

「なんでも言って大丈夫ですよ」と言われたので、ずっと溜めてきたものを吐き出してみた。あの療法をやるのが嫌だとか、子どもの頃のことを思い出すのが辛いとか、あなたはこんな風に私のことを思っているのではないか、それは心外だ、将来こんなプライドの傷つくようなことが起こるのでは、などなど洗いざらい言った。

 

 落ち着いて自分の外に出してみると、「こりゃー単なる言いがかりだな」とか「思い込み」「被害妄想」とわかることが多い。その中から、答えが必要なものをカウンセラーさんが丁寧に説明してくれて、それで拍子抜けするぐらい気持ちが収まった。

 

 今までの自分のプライベートな関係では、不満なんてそもそも言えないどころか感じることさえ禁じられ、無理やり喜びに変換していたり、どんなに泣いて叫んで伝えても100倍怒鳴られたり、「そんなこと気にするなんておかしい」と笑われたり。不満なんて抱いていいことはなかった。普通の声ではかき消されていたから。

 

 私の幼い子どもに普通のトーンで何かを伝えて、わかってくれたときの驚きは忘れられない。わからないだろうと思いながら一応「〇〇したくないから、●●してね」と言ってみたら通じた。怒りとか命令口調でなくても、まともな関係だったら通ることもあるんだ、と驚いた。もちろん通らないこともあるが。

 

 そうなんだ、本来はそうなんだと思ってカウンセリングでも試してみても同じだったから、今までどれだけよくない関係に身をおいていたのか、ということがわかる。これからは、不満を持ったら「普通のトーンでも言えそうだし伝わりそう」って思う関係を選んでいきたい。押し殺すか絶縁するかの二択しかないのは疲れる。

 

 人間関係って周りの大人たちから学ぶものだけれど、わたしは父の仕事の関係や母の特質から、ものすごく変わった母から間違った彼女独自のルールのものでしか教えてもらえなかった。そりゃー苦しいはずだよなと思う。大人になってからルールの書き換えをするのは骨が折れるけれど、残りの人生を大切に生きるために一つひとつやっていこう。

 

一ヶ月休んでしまいましたが

またいろいろ書いていきたいと思います。
12月から思うところあってカウンセリングに行っているのですが、子供時代を思い出したらやっぱり気持ちが落ち込んで、家事育児以外の時間は寝てるか本漫画動画で現実逃避していました。
仕事をセーブしていてよかった。

すごく疲れるし普通の人とは違うのが辛いから、治したいなと思ってあらゆることに手を出してきたけれど、カウンセリングがだめだったらもうできそうなことが残っていない。でもそれでも人生半ばの今なら、ブツブツ文句を言いながらやり過ごせるかもしれない。

フラッシュバックや人を疑う癖も、毎日映画みたいでスリリングでよいのかもしれない。疲れるけど。