読むのも書くのも暇な人

考えていることや読んだものについて書いていきます。

執着

 久しぶりにブログを書いて、自分にとっての長年の謎が解けた気がした。わたしは、父と母にとって”親”だったのではないか。かれらをいつもなだめ、おだて、機嫌をとっていた。通院しなくても処方される精神安定剤であり、無料のカウンセラーだった。だから家から出ないように縛りつけられたのではなかったか。

 

 子育てをしていると、子どもは身体的にも精神的にも社会的にも本当に弱い立場なんだなとわかる。当たり前だけど一人でお金を稼げないし、衣食住など身の回りのこともできない。体も心もまだ幼いから大人が見守って手助けしないと生きていけない。だからこそ、少しずつでも子どもが一人で何かできるようになると、嬉しい。すべてを全力で頼ってきた赤ちゃん時代を思い出すとほんのり寂しいけれど、いろんな意味で一歩ずつ家の外から社会に向かっていける人になっているんだと頼もしい。わたしにとっての子どもたちは、いつか必ず巣立っていく雛のようなイメージだ。今、期間限定でお世話しているだけ。成長したら、あの人たちにはあの人たちの飛ぶ空が別世界にある。わたしは一緒に飛ぶことはできないけれど、たまに帰ってきてその世界について話してくれたら幸せだ。それを励みに今、子育てをしていると言っても過言ではない。

 

 父と母は、そうではなかったんだな。早い時期に精神的な親子関係が逆転してしまったから、わたしのことを”親”と捉えた両親が、あの手この手を使って追いかけてきた。結婚する時も嫌がらせをされたし、子どもができたら母が赤ちゃん返りをしてしまって、わたしの家庭に”子ども”として入り込んでこようとした。あれは恐ろしかった。

 

 両親にいつか心から謝ってほしいという気持ちや、子ども時代を子どもらしく

わがままに過ごしてみたかったという気持ちは死ぬまで消えないと思う。でも、幼い自分の子どもを自分の親代わりにして人生丸ごと奪うことになんの疑問も持てないという重い”やまい”を持った人は、何があっても変われないだろう。だから、考えるだけ無駄なのだ。やっと執着を手放せるところに来れたかもしれない。